金沢学 2020年9月19日講座「オリンピックと平和をめざした情熱 ~郷土の偉人・大島鎌吉~」 [学ぶ・読む]
金沢大学と北國新聞社の共同事業、市民公開講座「金沢学」の9月19日講座。(予定では5月実施予定だった講座)
今回のテーマは「オリンピックと平和をめざした情熱 ~郷土の偉人・大島鎌吉~」
講師は野村泰裕氏(大島鎌吉スポーツ文化金沢研究会代表)
以下、受講メモ。
そもそも大島鎌吉って誰?
●明治41年(1908)に金沢市で生まれた
●1932年開催ロサンゼルス・オリンピックの三段跳びで銅メダルを獲得
●1964年東京オリピックの日本選手団団長を務めた
●戦後、五輪を通じた平和運動、青少年育成運動に取り組み、東京オリンピックの誘致運動にも尽力
●(旧制中等学校)金沢商業高校時代(当時、校舎は彦三にあった)
陸上競技部に所属
当時、三段跳びは「ホップ・ステップ・ヂヤンプ」と呼ばれた
大島は2年生の時に、棄権した上級生の代役として出場し、いきなり優勝
5年生の時、初の国際大会・極東選手権大会(上海)に出場、14m39の記録で銀メダル
その4か月前、「彦三の大火」(1927年4月)が起こり、燃えさかる校舎の校門に掲げられている「県立金沢商業学校」の門標を外して救った。大島の「母校愛」がうかがえるエピソード
●関西大学時代
1928年(昭和3)、早稲田大学などからの勧誘があったにもかかわらず、関西大学に入学
「関東ばかりが強くてはダメだ。東西の学校が競い合ってこそ競技力が高まる」という「反骨精神」によるもの
3年生で主将になり、理論的な練習を取り入れた
●オリンピック ロサンゼルス大会
大学1年の時のアムステルダム大会は国内予選会で敗退、惜しくも出場できず
三段跳びの本番4日前、選手村宿舎のガス風呂が爆発し、大火傷を負い、ぶっつけ本番で決勝に臨み、15m12で見事銅メダルを獲得
帰国後の報告文の中で、「オリンピックにおいて、重要なことは勝つことではなく、参加することです」というクーベルタン男爵の言葉(オリンピックのモットー)を英文で紹介した
大島にとってはメダル獲得よりもオリンピックの理想の姿を学んだことのほうが大きかった
●オリンピック ベルリン大会
ロサンゼルス大会の2年後、大島は毎日新聞社に入社、運動部の記者として所属しながら競技生活を継続(15m82の世界記録を樹立)
1936年のベルリン大会では日本選手団主将兼旗手として三段跳びに出場
開会式の入場での出来事。身長順で行進する際、(日本統治時代だった)朝鮮人選手の後ろを歩くことになった陸軍出身の選手が不満を漏らしたことに大島は一喝。「日本人も朝鮮人も同じ人間。オリンピックは平和の祭典だ。嫌なら立ち去れ!」
大島が当時、「跳ぶ哲学者」と呼ばれ、誰もが一目を置く存在だったことがわかるエピソード
●科学的トレーニングの導入
ベルリン大会の事務局長であったカール・ディームと面会した大島は、「インターバルトレーニング」などの科学的トレーニングについて聞き出し、また、人工土「アンツーカー」も譲り受けた
●従軍記者として
1939年~1945年8月1日までの6年近く、一度も帰国することなくドイツで従軍記者として取材
アドルフ・ヒトラーと会見し、ドイツの青少年活動やレクリエーション運動について聞き出した
●金沢市での国民体育大会
戦後、毎日新聞東京本社勤務となり、政治部を経て運動部に配属
国民体育大会の開催を模索
1947年、第二回国民体育大会が金沢市を中心に行われた
同時に、大島の提唱により第一回全国レクリエーション大会も開催された
(メイン会場は、日本で初めてのアンツーカーの競技場)
「スポーツは大衆に基盤を持って育成せよ」「余暇を善用して楽しむスポーツでなくてはならない」と、国民はスポーツをレクリエーションとして楽しむ必要があるという「大島アピール」を発表
●スポーツ少年団の創設
敗戦後、日本は国際オリンピック委員会や国際競技連盟から除名処分を受ける
しかし、大島の外交術により学生スポーツの復帰の承認を得、日本ユニバーシアード委員会の設立に携わった
青少年の育成のための環境を整えたり、指導者を育成していくスポーツ施策を行うことが急務であると考え、1962年、日本スポーツ少年団を結成
●東京オリンピック招致と選手強化
オリンピック招致運動が窮地に陥る寸前のところ、大島は過去のメダリストに連絡し「オリンピック・メダリスト・クラブ」を結成し、世界中のスポーツ関係者に挨拶状を送り招致を促した
東京大会開催の決定後、選手強化対策副本部長となり、「選手強化五か年計画」を策定
それまでの日本スポーツの欠陥を分析し、スポーツに「科学」を導入したトレーニングを推進
選手の発掘と育成、専任のコーチ制度、各競技の世界の著名なコーチや学者を招聘し、選手強化
●平和の祭典オリンピック
「東京オリンピックの聖火リレーランナーは、高校生たちの若者を中心にする」と提唱
東京オリンピックの閉会式では、各国選手が入り混じって入場。大島は「世界平和のためにオリンピックが必要だというのは、ああいうことなんだよ」と語ったそうです
●「みんなのスポーツ」運動
東京オリンピック開催を日本の「スポーツ元年」と位置づけ、二つの大仕事に取り組んだ
①1965年、「体力つくり国民会議」を発足、「みんなのスポーツ」をさらに推進した
②欧米で発展した「レクリエーション運動」、ドイツ由来の青少年野外活動「ワンダーフォーゲル運動」、生涯スポーツを推奨するノルウェー発祥の「トリム運動」(心身のバランスを保つためにスポーツは大切だという考え)などを次々と日本に紹介した
生活の中にスポーツを取り入れていこうとするスポーツ団体や組織の活動の種を撒いた一人
●オリンピック平和賞受賞
1980年、ソ連のアフガニスタン侵攻に対し、モスクワオリンピックのボイコット運動に関し、大島は「政治がオリンピックに介入すべきではない」と権力に立ち向かった(日本は不参加を決定)
「モスクワオリンピックで平和の芽が残るのか、ぜひとも見たい」と大島はソ連大使館に掛け合ってVIP扱いでソ連に入国した
前記の「大島アピール」に対し、1982年、アジア人として初めて「オリンピック平和賞」を受賞
授賞式では「アフリカでオリエンテーションを開催しようじゃないか」とスピーチした
●金沢市小立野に眠る
1985年、大島鎌吉は77歳で永眠(お墓は小立野の経王寺)
ここまで大島鎌吉のエピソードを聞いて、彼の特徴を表すキーワードを最後にまとめると、「公正」「正義」「理論的」「先進的」「科学的」「挑戦者・開拓者」「平和希求」「情熱」「謙虚」といったところでしょうか。
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今回のテーマは「オリンピックと平和をめざした情熱 ~郷土の偉人・大島鎌吉~」
講師は野村泰裕氏(大島鎌吉スポーツ文化金沢研究会代表)
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そもそも大島鎌吉って誰?
●明治41年(1908)に金沢市で生まれた
●1932年開催ロサンゼルス・オリンピックの三段跳びで銅メダルを獲得
●1964年東京オリピックの日本選手団団長を務めた
●戦後、五輪を通じた平和運動、青少年育成運動に取り組み、東京オリンピックの誘致運動にも尽力
●(旧制中等学校)金沢商業高校時代(当時、校舎は彦三にあった)
陸上競技部に所属
当時、三段跳びは「ホップ・ステップ・ヂヤンプ」と呼ばれた
大島は2年生の時に、棄権した上級生の代役として出場し、いきなり優勝
5年生の時、初の国際大会・極東選手権大会(上海)に出場、14m39の記録で銀メダル
その4か月前、「彦三の大火」(1927年4月)が起こり、燃えさかる校舎の校門に掲げられている「県立金沢商業学校」の門標を外して救った。大島の「母校愛」がうかがえるエピソード
●関西大学時代
1928年(昭和3)、早稲田大学などからの勧誘があったにもかかわらず、関西大学に入学
「関東ばかりが強くてはダメだ。東西の学校が競い合ってこそ競技力が高まる」という「反骨精神」によるもの
3年生で主将になり、理論的な練習を取り入れた
●オリンピック ロサンゼルス大会
大学1年の時のアムステルダム大会は国内予選会で敗退、惜しくも出場できず
三段跳びの本番4日前、選手村宿舎のガス風呂が爆発し、大火傷を負い、ぶっつけ本番で決勝に臨み、15m12で見事銅メダルを獲得
帰国後の報告文の中で、「オリンピックにおいて、重要なことは勝つことではなく、参加することです」というクーベルタン男爵の言葉(オリンピックのモットー)を英文で紹介した
大島にとってはメダル獲得よりもオリンピックの理想の姿を学んだことのほうが大きかった
●オリンピック ベルリン大会
ロサンゼルス大会の2年後、大島は毎日新聞社に入社、運動部の記者として所属しながら競技生活を継続(15m82の世界記録を樹立)
1936年のベルリン大会では日本選手団主将兼旗手として三段跳びに出場
開会式の入場での出来事。身長順で行進する際、(日本統治時代だった)朝鮮人選手の後ろを歩くことになった陸軍出身の選手が不満を漏らしたことに大島は一喝。「日本人も朝鮮人も同じ人間。オリンピックは平和の祭典だ。嫌なら立ち去れ!」
大島が当時、「跳ぶ哲学者」と呼ばれ、誰もが一目を置く存在だったことがわかるエピソード
●科学的トレーニングの導入
ベルリン大会の事務局長であったカール・ディームと面会した大島は、「インターバルトレーニング」などの科学的トレーニングについて聞き出し、また、人工土「アンツーカー」も譲り受けた
●従軍記者として
1939年~1945年8月1日までの6年近く、一度も帰国することなくドイツで従軍記者として取材
アドルフ・ヒトラーと会見し、ドイツの青少年活動やレクリエーション運動について聞き出した
●金沢市での国民体育大会
戦後、毎日新聞東京本社勤務となり、政治部を経て運動部に配属
国民体育大会の開催を模索
1947年、第二回国民体育大会が金沢市を中心に行われた
同時に、大島の提唱により第一回全国レクリエーション大会も開催された
(メイン会場は、日本で初めてのアンツーカーの競技場)
「スポーツは大衆に基盤を持って育成せよ」「余暇を善用して楽しむスポーツでなくてはならない」と、国民はスポーツをレクリエーションとして楽しむ必要があるという「大島アピール」を発表
●スポーツ少年団の創設
敗戦後、日本は国際オリンピック委員会や国際競技連盟から除名処分を受ける
しかし、大島の外交術により学生スポーツの復帰の承認を得、日本ユニバーシアード委員会の設立に携わった
青少年の育成のための環境を整えたり、指導者を育成していくスポーツ施策を行うことが急務であると考え、1962年、日本スポーツ少年団を結成
●東京オリンピック招致と選手強化
オリンピック招致運動が窮地に陥る寸前のところ、大島は過去のメダリストに連絡し「オリンピック・メダリスト・クラブ」を結成し、世界中のスポーツ関係者に挨拶状を送り招致を促した
東京大会開催の決定後、選手強化対策副本部長となり、「選手強化五か年計画」を策定
それまでの日本スポーツの欠陥を分析し、スポーツに「科学」を導入したトレーニングを推進
選手の発掘と育成、専任のコーチ制度、各競技の世界の著名なコーチや学者を招聘し、選手強化
●平和の祭典オリンピック
「東京オリンピックの聖火リレーランナーは、高校生たちの若者を中心にする」と提唱
東京オリンピックの閉会式では、各国選手が入り混じって入場。大島は「世界平和のためにオリンピックが必要だというのは、ああいうことなんだよ」と語ったそうです
●「みんなのスポーツ」運動
東京オリンピック開催を日本の「スポーツ元年」と位置づけ、二つの大仕事に取り組んだ
①1965年、「体力つくり国民会議」を発足、「みんなのスポーツ」をさらに推進した
②欧米で発展した「レクリエーション運動」、ドイツ由来の青少年野外活動「ワンダーフォーゲル運動」、生涯スポーツを推奨するノルウェー発祥の「トリム運動」(心身のバランスを保つためにスポーツは大切だという考え)などを次々と日本に紹介した
生活の中にスポーツを取り入れていこうとするスポーツ団体や組織の活動の種を撒いた一人
●オリンピック平和賞受賞
1980年、ソ連のアフガニスタン侵攻に対し、モスクワオリンピックのボイコット運動に関し、大島は「政治がオリンピックに介入すべきではない」と権力に立ち向かった(日本は不参加を決定)
「モスクワオリンピックで平和の芽が残るのか、ぜひとも見たい」と大島はソ連大使館に掛け合ってVIP扱いでソ連に入国した
前記の「大島アピール」に対し、1982年、アジア人として初めて「オリンピック平和賞」を受賞
授賞式では「アフリカでオリエンテーションを開催しようじゃないか」とスピーチした
●金沢市小立野に眠る
1985年、大島鎌吉は77歳で永眠(お墓は小立野の経王寺)
ここまで大島鎌吉のエピソードを聞いて、彼の特徴を表すキーワードを最後にまとめると、「公正」「正義」「理論的」「先進的」「科学的」「挑戦者・開拓者」「平和希求」「情熱」「謙虚」といったところでしょうか。
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タグ:オリンピック
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