加賀本多家のはじまり -前田利長と本多政重ー [学ぶ・読む]
加賀本多博物館で秋季特別展「加賀本多家のはじまり -前田利長と本多政重ー」を観てきました。
先日の金沢学で「前田利長の遺誡と本多政重の帰参」というテーマの話を聞いたばかり、さらに知識を深めようということで。
加賀藩には、一万石以上の禄を与えられた大名暮らすの重臣で、年寄役を務める家が8つあり、これらは「加賀ハ家(はっか)」と呼ばれ、平時には藩内の政務を統括し、戦時には軍団の長となる藩内最上級の家柄だった。
本多家は八家のひとつであり、大名の3分の2が禄高5万石以下であった江戸時代に、五万石という破格の高禄を受けていた。
また、本多家には藩主前田家より、三代利常六女・春姫、12代斉広七女・寿々姫の二度にわたり輿入れがあるほどの家柄だった。
加賀本多家は、本多家初代政重が前田利長に招かれた慶長16年(1611)に始まる。
●徳川家康の重臣・正信の次男
●奉公先を次々と変え、関ケ原の戦いでは宇喜多秀家の家臣として西軍で活躍
●慶長9年(1604)には上杉景勝の執政・直江兼続の養子として米沢に居住し、直江勝吉を名乗る
●慶長16年(1611)に加賀藩に仕え、重要政務に携わる
今回の特別展では、慶長16年になされた政重の加賀藩登用に関する史料を公開。
駿府の大御所・徳川家康の信頼厚い伊勢津藩藩主・藤堂高虎が直江勝吉(のち本多政重)を加賀藩3代藩主・前田利光(のち利常)附きの家臣に推薦したことにはじまり、最終的に2代藩主・前田利長の決断によって政重登用が決定するという交渉過程が確認できる非常に興味深い資料を展示。
また、初公開となる前田利長黒印状4通を展示。
本多家の家紋は立葵
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先日の金沢学で「前田利長の遺誡と本多政重の帰参」というテーマの話を聞いたばかり、さらに知識を深めようということで。
加賀藩には、一万石以上の禄を与えられた大名暮らすの重臣で、年寄役を務める家が8つあり、これらは「加賀ハ家(はっか)」と呼ばれ、平時には藩内の政務を統括し、戦時には軍団の長となる藩内最上級の家柄だった。
本多家は八家のひとつであり、大名の3分の2が禄高5万石以下であった江戸時代に、五万石という破格の高禄を受けていた。
また、本多家には藩主前田家より、三代利常六女・春姫、12代斉広七女・寿々姫の二度にわたり輿入れがあるほどの家柄だった。
加賀本多家は、本多家初代政重が前田利長に招かれた慶長16年(1611)に始まる。
●徳川家康の重臣・正信の次男
●奉公先を次々と変え、関ケ原の戦いでは宇喜多秀家の家臣として西軍で活躍
●慶長9年(1604)には上杉景勝の執政・直江兼続の養子として米沢に居住し、直江勝吉を名乗る
●慶長16年(1611)に加賀藩に仕え、重要政務に携わる
今回の特別展では、慶長16年になされた政重の加賀藩登用に関する史料を公開。
駿府の大御所・徳川家康の信頼厚い伊勢津藩藩主・藤堂高虎が直江勝吉(のち本多政重)を加賀藩3代藩主・前田利光(のち利常)附きの家臣に推薦したことにはじまり、最終的に2代藩主・前田利長の決断によって政重登用が決定するという交渉過程が確認できる非常に興味深い資料を展示。
また、初公開となる前田利長黒印状4通を展示。
本多家の家紋は立葵
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